平塚市(平塚宿の歴史)

平塚と言う名は鎌倉時代から史上に現れている。このあたりは、鎌倉幕府の開設
以来、鎌倉と京を結ぶ街道として文物の往来があったところである。
室町時代には、大森氏が平塚城を築いているが、文明10年(1478)に太田道灌
により攻め落とされ廃城となっている。
江戸時代に入り宿駅が制定された時点では、平塚宿はいわゆる本宿だけ
であったが宿駅の窮乏から慶安4年(1651)本宿の東に新宿が加えられた。
しかしそれでも平塚宿は小規模な宿場だったようである。
明治以降は、海軍火薬工場をはじめとする工場が建ち県中央部の先進的
工業地帯へと変貌した。しかし、このため昭和20年7月に大空襲で五町の内
柳町を残し、残り四町が全て焼失し焼け野原となった。
そのため宿場らしい面影を見出すことはできないが、
西組問屋場跡のあたりから
前方に見える高麗山の姿は浮世絵
のままである。

            
東海道五十三次・平塚宿
日本橋から十五里半(約62キロ)徒歩で約15時間半
天保14年(1843)の宿場は、人口2114人・家数443軒・旅籠54軒・本陣1軒
である。
今、平塚市で一番の繁華街はJR平塚駅前から旧東海道に出た通りだが、
かっての平塚宿の入り口は、現在の平塚市民センターの辺りであり、ここに立つ
「平塚見附跡」碑から西組問屋場まで、脇本陣跡、高札場跡、本陣跡等の
碑がたっている。

神奈川東海道ルネッサンス推進協議会「東海道ルネサンス宿場マップSTEP3」から掲載
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平塚宿模型 平塚市博物館蔵
平塚宿絵図(文化8年) 平塚市博物館所蔵
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平塚宿は東海道沿いに左右帯状に家並みをなし、その長さは平塚
新宿を含め十九町五間(約二キロメートル)海岸をはさんだ南側は
御林が海岸まで続き、南側は田畑や御林であった。
 本陣絵図 平塚市博物館所蔵
建坪111坪内部は書院造りで、湯殿(ゆどの・風呂場)、雪隠(せつ
いん・便所)なども、宿泊者と本陣家族では別々に設けられていた           

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